2009年 05月 12日
店主の素性
(だらだらと長いので暇でどうしようもない時に読み進めて下さい)
3歳で上田市新町へ引越し(現在の常磐城、上田城の北西側)
西保育園、西小学校、上田三中と・・
さて高校は?
家から近い方がいいなぁと漠然と考えており
一番近いのは上田高校(県内有数の進学校)なのでソコに行こうと決めていたのだが、
古船橋が完成し一番近いのは上田千曲高校(工業高校)になった。
じゃぁ千曲高校で・・的に高校進学。
(進路指導の先生も激しく同意&異議なし)
バスケット、剣道、水泳、サッカー、ハンドボール・・中学時代より数々の部活を渡り歩き
最終的に落ち着いたのは帰宅部で寿司屋のバイト。
そこそこ寿司が食えてお金が貰える。
夢のような日々。
オカモチ片手のカブを運転させたら今でも最速の自信あり。
1979年
工業高校なので当然の如く就職へ向け吟味を・・。
今ほど大変な時期では無いため選り取り見取りの企業があり
会社見学ではコーヒー牛乳を出してくれたお姉さんが綺麗だったカネボウに行く気満々であったのだが
パンフレットが綺麗(冗談ですよ^^;)だという親の勧めで隣町の大手メーカー(松下電送機器株式会社)事業場入社。
して、なんやかんやの25年
適度に山あり谷あり
結婚、子供、長期ローンでのマイホーム・・
そんな極々一般的な勤め人暮らしのなか・・
青天の霹靂
2004年
事業場閉鎖。
辞める or 新潟は小千谷市にある事業場へ単身赴任
考えるまでもなく新潟へ。
当時、人事職能だった自分は辞めようとする人たちを説得し
燐県への異動を促したのだが・・
同年10月23日
新潟中越地震に見舞われる。
会社はまさに震源地の上である。
滅茶苦茶になった生産ライン。
余震続く中でのたて直し。
一週間後には小規模ながら生産開始しておりました。
人間の底力とは、時に想像を絶する難題にも打ち勝つと実感。
明けて1月、中越では20年ぶりの大雪に見舞われる。
朝会社のパーキングに止めた車が昼過ぎには何処にあるのか判らない雪降り。
震災の影響で融雪機能も満足に稼働できない中での大雪。
雪には慣れている従業員もこの日は15時退社にて各自帰路へ。
(写真は30分程掛けてやっと掘り出した状態)
20分で到着する通勤路に6時間・・。
途中でガス欠になり放置された車やスタックして動けない車。
そんなこんなの大混乱。
半年ほどの間に事業場閉鎖から相次ぐ天災と
泣きっ面に蜂とはこの事・・
しかもスズメ蜂クラスに2回もダメージを与えられたのである。
普通、蜂に2回刺されると致命的らしいのですが・・・
とりあえず生きております。
あの頃の苦労があるから大抵の苦労は乗り切れる。
いまでも震災の爪痕が色濃く残る場所や人が大勢居ります。
復興に向け一緒に頑張った企業地域のみなさん元気ですかぁ!
引続き頑張りましょう!
そんな単身赴任2重生活
車で家と赴任先のアパートを往復する道中。
色々な事を考えるには持って来いの狭い空間と時間が強制的に与えられる。
・・・辞めようかな。
などと考えていた頃に長野市で開催されたラーメン博。
噎せ返る様な人混み。
みんな好きなんだなぁラーメン・・・
コレ・・
俺もやる。
(開業2年後より、毎年ラーメン博へのお誘いを頂きましたが
1日600食~1000食という数を作るノウハウが無い為
残念ながら見送りをさせていただいております)
そして、単身先との車中で聴くラジオから流れる
2006年3月
27年間務めた会社を退社。
退社の半年ほど前からイメージを膨らませていた「とりそば」に本格的に着手。
実は「とりそば」というネーミングはかなり早い段階で決まっておりました。
理由は単純で、兄が市内で「鳥花」(現在は城下駅付近にて)という焼き鳥屋
をやっているという事。
兄弟で3次産業をしている旨の何かストーリーが欲しかったのでした。
「とり」繋がりです。
蛇足ですが、
一番上の姉も新宿初台で「あうん」という割烹定食屋をやっており・・。
水商売3兄弟。
安定を求めていた亡き親父も目を覆っていることでしょう。御免。
して、
「とりそば」ならではのスープ創りへの試行錯誤。
(スープ創りについては「いのちのスープ」にて)
・・・現在に至る。
・・まだまだ旅の途中です・・
後述(2009.7)
その新潟の事業場も2009.5月にて閉鎖となったそうです。
この国はどこへ向かっていくのでしょうか・・・
アノ人がつくったものを食べたい。
そういう食べ手の期待を裏切らない。
いつも、アーティストでありアスリートでありたい。
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